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コンテンポラリーダンスカンパニー【tantan】主宰の異端児が問う「自由論」

コンテンポラリーダンスカンパニー【tantan】主宰の異端児が問う「自由論」

「コンテンポラリー」とは、“現代的な” また芸術の分野においては “前衛的な” などという意味を表す。

 

それでは、“コンテンポラリーな生き方”とは何か?

 

例えばそれは、大学では実技しか真面目に取り組まず、座学については後輩に出席を頼むか、出席がとられた後に後方の窓から脱出するような生き方。

3 体のダッチワイフ(名前は、もも、さちこ、あけみ)を有し、そのうちの一体を大学に連れていったことで警備員に捕まってしまうような生き方。

問題児として反省文を書かされた事は数知れず、しかしそれでも、自身のダンスカンパニーを立ち上げ、振付師としても活躍するような生き方。

 

「死ぬときに、ああ楽しかった、と言えるように、今はただ自分の手の内をさらけ出しているだけです」

ダンスグループ “tantan” 主宰であり、振付師の亀頭可奈恵さんはそう語る。

そんな亀頭さんが、彼女の有する手札を余すことなく私にさらけ出してくれた。

 

コンテンポラリーダンスとは?tantan が織りなす奇妙な世界観

 

tantan は、日本女子体育大学舞踊学専攻の同期 6 人によって 2014 年に結成されたコンテンポラリーダンスグループだ。単独公演や韓国公演、また様々なコンテストで受賞を果たし、その独特な世界観で人々を魅了し続けている。

彼女たちの演じる「コンテンポラリーダンス」という言葉について聞き慣れない人は多いかもしれない。

 

上述の通り、コンテンポラリーとは、現代的な、前衛的な、という意味を指すが、それではコンテンポラリーダンスとは何か?それを言葉で表すことは難く、また言葉という枠でそれがどのようなものかを規定してしまうことは、恐らく彼女たちの意に反するだろう。

 

だからまず、彼女たちがどんな作品を披露しているのかを見て欲しい。

『生きるために食う』

これは、亀頭さんが大学二年生の頃に手掛けた作品である。

自分にしかできないことは何か、いや、なにをしなくてはならないのか、当時の彼女はとにかく必死だったという。それこそ死に物狂いで、持ち前の勢いと過剰ともいえる自信でぶつかった末、なにかに心身を費やすエネルギーそのものを「生きる」ということに置き換えた本作を仕上げた。

生きるためには食わねばならない。

直喩的に「食う」ことを「生きる」ことに結び付けた本作の力強さが、ありありと伝わってくる。それだけ心身ともに捧げて手掛けた作品だから、ということは演技そのものが意味するところなのだろう。

 

初めて観た時、身体の全てによる表現技法と、そのあふれるばかりのメッセージ性にたじろいでしまった。私の中のダンスという枠を軽々しくも越え、ましてや演劇でもミュージカルでもないその舞台に、奇妙な高揚感を抱いた。

これはなんだ?彼女たちはなにをやっているんだ?

もしも彼女たちの演じるそれが、ただ「前衛的な」という言葉を盾に、「よくわからなさ」を武器にしていたとしたら、素人の私はとてもじゃないが観ていられなかっただろう。

しかし、この舞台はなにか心を惹きつけるような驚きがある。

 

そんな私の率直な想いを主宰の亀頭さんに伝えたところ、「実は私もコンテンポラリーダンスってあまり観ないんです」と、自分を取り繕うことも一切なく教えてくれた。

なぜ生み出し、そして舞台に立つのか

 

どうして彼女は作品を生み出すのか、その原動力は何かを、亀頭さんに訊ねてみた。

 

「評論家のための踊り」というものは絶対にしたくなかった、と彼女は言う。

「評論家のためではなく、ダンサーやダンス好きのためでもない。

面白いことがしたい、楽しいことがしたい、それで見てくれる人が楽しんでくれれば良いという一心で居る。そもそも、楽しいと思えることじゃないとできない」

 

そんな亀頭さんにとって「楽しいこと」とは、表現することだった。それは別に社会に対する不満でもなんでもなく、ただ些細な自分の想いを形にする。

 

まずは、自分が楽しい事を。それが、他の人にとっても楽しい事であれば良い。

だから一応はコンテンポラリーを名乗ってるけれど、理解されたいという想いはもちろんあるし、自分の作品が理解されるための努力は惜しまない。

 

私達は〝不自由〟である。なぜなら〝自由〟だからだ。

 

私が考える前衛芸術とは、「よくわからなさ」だった。「よくわからなさ」とは扱いがとても難しく、逆説的に狭い枠を築いてしまうことが多々あり、その枠がいつしか理解のある人、 分かった気になった人のものになってしまう。

 

しかし亀頭さんは、それを良しとせず、様々な人にコンテンポラリーダンスへの門戸を開こうとしている。

彼女らの作品自体も、確かにわかりやすいものではないかもしれないが、入り口となるようなヒントを必ず用意し、その上で観客に咀嚼させ、自分なりの答えを導くことを促すようなものとしているそうだ。

 

自由であること、不自由であること。長年続けてきたダンスに対してその想いを見出した彼女は、紛れもなく「型にはまらない、自分にしかできない生き方」そのものを胸に秘めて生きている。

そして、「こうでなくてはいけない」「こうあるべきだ」という規定に真っ向から抗い、今度は自由という枠の中で自身を問い続けているのだ、と私は感じた。

 

「どうあるべきか」よりも「どうありたいか」

私は、亀頭さんに対し、本当に自律性を大切にしている女性なんだな、という強い印象を抱いたが、そのような態度は観客に対してだけではなかった。

 

仲間に対してもそのような態度で臨むそうだ。その人にしかできない役割を与える。どうしてこの演出が必要なのかを考えさせ、みつけさせる。

 

「ただうまくやるだけなら、10 年練習すればだれでもできる」そうではなく、自分たちにしかできないことをやる。

 

技術的な巧さのみを追求するのでも、意味ありげで何も意味しない表現に頼るのでもなく、彼女たちがしようとしているのは、面白い事であり、観客に訴える事。

それは、亀頭さんにお話を聞く前にこのグループから感じた「心を惹きつけるような驚き」の要因の一つかもしれない。

 

また、私もつい驚いたのだが「いやになったらやめればいい」という不文律の了解さえもメンバーのうちにあるそうだ。

 

それは冷たい言い方に聞こえるかもしれない。しかし、「こうでなくてはいけない」というあり方にどこまでも甘んじない、確固たる意志があるように思えてならなかった。

 

そして、これから

最後に、亀頭さんにグループとしての目標を訊いてみた。彼女は少し考えこんだあと、「目標はないです」と飾り気のない笑顔を浮かべて答えてくれた。

「目標を定めると、叶えられなかったときが悲しい。叶えられたとしても、予定調和で終わらせたくない。ただ面白い事を提供したい、だから必ずしもそれがダンスじゃなくても良いんです」

どこまでも自律的で、奔放に振舞う彼女であるが、その裏で様々な葛藤に悩まされることもあったのではないか、という想像は難くない。

 

そんなことをふと思った折、一寸置いた彼女が「あ、でも」と付け足した。

「このメンバーでずっと、楽しいことはしていたいです」

と、少し恥ずかしそうに打ち明けてくれた。

ダンスカンパニー tantan

公式HP https://tan2.tokyo/
twitter 
instagram tantantotantan77

 

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